「奄美の里」の運営会社、藤絹織物株式会社の創業者 藤都喜ヱ門が出身地である奄美の原風景を鹿児島に再現したいという思いを馳せながら、当時、鹿児島県開発事業団が谷山沖を埋め立て広大な産業用の分譲二号地を造成していた谷山のこの地に「奄美の里」を作ることを思い立ちました。
産業用の分譲地ということで、大島紬の見せる工場として、泥染めをしているところ、織りや締めが実際になされているところを誰でも自由に見ることができるような見学工場にしようと計画が進められていきました。
見学工場へのアプローチのところには蘇鉄やテーチ木、ガジュマルなど奄美の植物を植えた奄美庭園をつくり、そして、そこに都喜ヱ門の生まれ育った9尺2間の家を二棟ほど配置しました。そして、昭和49年3月に鹿児島初の産業観光施設として、「奄美の里」がオープンしたのでした。
その後も、連日多くの見物客が訪れ、賑わいを見せていたのですが、つねづね、何かシンボルとなるものが何か欠けていると考えていた都喜ヱ門は里内にてサトウキビを栽培していた場所に、日本古来の世界に誇れる空間芸術である”日本庭園”を造りたいと考えました
その昔、奄美の島々は南下する稲作文化と北上する植物文化、それに大陸文化などが行き交う特別な地域で「道の島」とよばれており、その飛石状の岩石を「道の島」に見立て、築山によって開聞岳・霧島蓮峰などを表現した独創的な日本庭園を造りたいと。
都喜ヱ門の日本庭園造りがスタートしたのは昭和54年3月のことでした。
庭園造りのために使われた青石は愛媛県西条市から船をチャーターして運びだしました。そのときの青石すなわち緑泥片岩は数量で三千個、トン数で言えば4千トンという膨大な量でした。
そして、昭和56年7月、数々の苦難を乗り越え、ついに奄美の里の日本庭園が完成したのです。
都喜ヱ門の奄美への熱き想いに支えられて造られた奄美の里には奄美庭園や日本庭園、そして、大島紬の製造工程を見ようと県内外だけでなく海外からも多くの観光客が訪れるようになりました。
その後、”この日本庭園をバックに披露宴が出来たら、列席の方々がきっと喜んでくれるはず”というお客様の声をうけ、平成20年、婚礼・宴会などのバンケット事業を本格的にスタートすることとなりました。
平成21年には旧都喜ヱ門邸を移設して作られた洗心亭を婚礼式場として大幅にリニューアル。そして、平成25年には全館リニューアルを行い、以降、大小ご宴会、披露宴の会場として、たくさんの方々にご利用いただくようになりました。
これからも大島紬で培った歴史と伝統を守りながら、より洗練された空間とサービスを提供し、
”人と人との心が通じる”ことを意味する”結いの心”の精神の元、奄美の里の歴史を紡いでいきます。